No.48 「攘夷々々」と騒いだのは誰、攘夷の真意は?


「尊王攘夷」という言葉がありますが、黒船来航以来、この「攘夷」は国策として断固たるものではなく、
幕府当局は攘夷を不可能と見ていました。

福井藩主松平慶永(写真)の雨窓閑話稿からの引用です。

ある日烈公(徳川斉昭)に余拝謁の時、越前侯は後来の目的は如何、尊皇はもとよりなれど攘夷は出来候もの哉との御問に、余今日の景況を以て考ふれば、後来攘夷は六ケ敷もの也と御答申たり。公、私も同様の考えなり。尊皇と申て只々帝室を尊ぶべきばかりではなし。主上の御親裁になりて徳川は将軍を辞し、役人は旗本譜代大名ばかりではとても維持しがたし。
各藩の人々を撰み、人材を抜擢して役人とすべし。攘夷はとても六ケ敷もの也。第一外国の大小炮にしろ、軍備十分相整ひ、ことに外国は皆日本ごとき小国にあらず、其上昔の武田流のごとき迂遠なる軍備にては戦争しがたし。夫よりは一層外国と貿易する方得策といふべし。
松平慶永(春嶽)、秋田書店、歴史と旅臨時増刊「幕末維新人物総覧」、昭和64年より転載 これを読むと、幕政に影響力のある二人は軍事力から判断して攘夷はとても無理だと考えております。この松平慶永と徳川斉昭の会話がいつごろかは分かりませんが、斉昭が死去したのが万延元年(1860)8月15日ですから、当然これより前ということになります。
この二人の会話は、日本が外国勢力の軍事力を身を持って理解した、薩英戦争(文久3年(1863)7月)と四カ国連合艦隊の長州上陸(元治元年(1864)8月)の前になされているのです。すなわち、外国勢力の軍事力を具体的に知る前に、攘夷はできないと判断しております。これから考えると、攘夷はできないと判断するに十分な情報がすでに入手されていたようです。


そして、攘夷は到底無理と分かっているのに、ある集団が東禅寺の外国人を集団で襲撃したのが文久元年(1861)5月、長州藩が下関通行の米艦を攻撃し攘夷を実行したのが文久3年(1863)5月です。
外国勢力の軍事力が日本と比較してどのように違うのかを正確に把握することは、当時難しかったと思います。何せ良く分からなかったのが実情です。


長州藩が下関通行の米艦を攻撃する9年前、吉田松陰が海外渡航に失敗して「幽囚録」なるものを遺しております。

近年来、諸夷の舶競ひて我が邦に至る。
而して其の主果して道あるか、将果して能あるか、天地果して得たるか、法令果して行はるるか、兵衆果して強きか、士卒果して練れたるか、賞罰果して行はるるか、抑々皆非なるか。先ず知る者あることなし。
是れ徒に彼を知らざるのみならず、亦己を知らざるの甚だしき者なり。
当時のインテリである吉田松陰が、「海外諸国について知る者がいない」と述べておりますから、聞きかじり程度の知識だったのでしょう。

また、吉田松陰は己を知らないとも行っておりますが、これは海外諸国と日本とを比較することができない状況を嘆いているものと思います。

日本は外国勢力の軍事力を知っていたのか、知らなかったのか、そして攘夷をするのかしないのかという
2値論理での論理の「組合わせ」を列記してみると、以下の4種類となります。

外国勢力の軍事力が良く分からない状況で攘夷は回避したい。

外国のことが良く分からない状況で外国勢力を実力で排斥するということは無謀でしょう。
まずは情報収集と様子を見ることになり、まして攘夷は回避となるでしょう。このような考え方が、当時、一般的ではなかったかと思います。

強力な軍事力を持つ外国勢力であるから攘夷は回避したい。 外国勢力の軍事力情報を得ていた幕府当局と一部識者の考え方だと思います。特にアヘン戦争情報は多大な影響を与えていたと思います。
外国勢力の軍事力は良く分からないが攘夷を実行する。 心情的攘夷というか民族主義的な要素が強く出てくる考え方で、一番根元的なものでしょう。
外国勢力の強力な軍事力を知っているが攘夷を実行する。 戦争すると日本は負けるであろうことを承知しながらも、敢えて攘夷をしなければならないという考え方で、国際社会に入って行くため、国内の考え方、体制を替える目的が背景にあると考えられます。

日本の対外政策(攘夷・開国)はこの4種類が複雑にからんで進んで行くことになります。
日本から積極的に外国へ出て、世界の枠組みの中での役割を模索するという思想・試みが一部にでもなかったのでしょうか。


目次に戻る

hanmap.gif (2136 バイト)