No.47 ペリー来航のとき、幕府の危機管理は?
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ペリーが来航することは、オランダ商館長から和蘭別段風説書などで前もって知らされておりましたので、一応予定されていたことです。 幕府はペリー来航の目的が通商を求めることであることも承知していたのでしょうが、通商を求められるということは、具体的にどのような手続きや形式で進められ、幕府はどのように対応すべか準備をしていたのでしょうか。 長崎に来航すれば、従来通りのやり方でいけるはずですが、浦賀に来てしまいましたので、さて、どうすれば良いのか、相当混乱したと予想します。 幕府は江戸近辺に来航することを知らされていたのですから、何かしら準備をしていたと思いますが、その準備が十分でなかったためでしょう相当あわてました。 |
来航に対する当面の問題は、幕府側の誰が交渉責任者となるかであったと思います。 交渉責任者の選択肢としては、浦賀に来航したため浦賀管轄の責任者である浦賀奉行か、対外窓口は長崎管轄であることより江戸にいる長崎奉行(二人役の在府側奉行)、そして幕閣から選ぶ特別交渉責任者、の3種類が考えられますが、どうもペリー来航のように例のないものの場合の職務分掌がなかったようです。考え様によっては危機管理体制が十分ではなかったとも言えそうです。 長崎に来航せず浦賀に来航したため、大騒ぎになってしまったと考えるのが妥当なところだと思います。幕府当局から見れば長崎は非常に遠いのですが、浦賀は眼と鼻の先です。身近な問題が重要課題となるのはいつの世も同じです。 |
幕府当局が米国使節来航に関する情報をどの程度まで得ていたのか、これが重要ポイントとなります。得ていた情報の内容により対応策が立てられるはずです。 幕府が得ていた外交事項の情報はどんなものでしょうか。 幕府側から長崎の出島のオランダ商館長へ何をするべきかの問い合わせが公式、非公式に多数あったと思います。この手の文書は一般的に公開されないでしょうし、今となっては保存されていないかもしれませんが調査してみます。 ついでに通訳の転勤はなかったのかどうかも調査してみたい事柄です。通訳の異動指示があったかどうかは、幕府が来航場所についてどのような見通しを持っていたのかを予想する助けになるはずです。 |
浦賀附与力樋田多太郎の聞書があります。
此の度入津の異船、一昨年と覚え候、蘭人を以て申し込みこれ有り候儀にて、石炭置場土地借用、并に交易を通ずることを願うという事、かねて御承知の儀にて候処、ことごとく秘密にのみ成し置かれ、一向御手当ての儀仰せ出されもこれ無く候につき、筒井肥前守(政憲、西丸留守居)殿より、厳重の御手当てこれ無くては相成らざる旨、頻りに申し上げに相成り候処、更に御取上げこれ無く、よふよふ昨暮に至り、四家へ御達しに相成り、浦賀奉行へも同時御達しこれ有り候処、又候奉行秘し置き、与力へは一切通達これ無く、さて当二、三月に至り、追々時節にも相成り候につき、紀伊守殿より、御手当て向き御申し出での処、一切御取用ひこれ無き由。 |
与力の樋田多太郎は、幕府はあらかじめ米国使節の来航を知っていながら、手を打たなかった幕府当局の無策を指摘しております。 この指摘はもっともとは思いますが、さて、幕府当局および日本側はどんな手を打てば良かったのでしょうか。強いては世の外交評論家はどういう意見を持っていたのでしょうか。 どの時代も評論は出来ますが、責任が課せられると実行はなかなか難しいものです。 |
特に誰が責任をもって当るのか、費用負担はどこが行うのかという問題は実行と同時に発生しますし、なかなか決まらないのです。これが決まらないために実行策がのびのびになるのです。 |