No.46 黒船ショックで黒船調達 2002.11.19

造船は無理なので、まずは黒船購入、お古は意外と少ないのです


kanko1.gif (55631 バイト)  ペリー提督が率いてきた黒船4隻の日本に与えた衝撃は相当なものだったようです。


第一にその大きさでしょうか。
太平洋戦争の思い出話しに聞いた「米国の爆撃機 B29に向かう日本の戦闘機の小さいこと、羽の下でちょこちょこ」と同じかもしれません。

黒船の全長65m、和船が全長24mという話もありますので、その差は非常に大きいものです。
ペリー艦隊を発見した見張りの者は、「三千石積みの船」と報告しております。当時の日本は千石船がもっとも大きい船でしたから、約3倍と見たのは第1印象として正しいようです。

黒船と日本の弁才船の違いは、その差を越えて印象づけられたのです。

「我が日本にも黒船がなくては」という危機感があらゆるところで沸き上がってきました。日本人は黒船の持つ何を必要と感じたのでしょうか。黒船から何を感じたのでしょうか。得体の知れない怪物としてとらえた人、大型外洋船という意味合いを知ってとらえた人、さまざまだと思います。

  ペリー艦隊が浦賀を去るやいなや、嘉永6年6月18日には徳川斉昭が川路聖謨、筒井政憲に、大名にも大船の禁を解くべきと提言し、嘉永6年6月19日には、老中阿部正弘が蒸気軍艦 7隻をオランダから調達するよう浦賀奉行から長崎奉行に転出の決まった水野筑後守忠徳に指示しています。
水野忠徳が受けた指示は、「軍艦をオランダに献納させよ」という高圧的なもので、献上ができなければ購入するというものです。
当時幕府はオランダに相当強い立場にあったようで、オランダ商館の対応姿勢も従順なものであったのでしょうか。

また、佐賀藩主鍋島直正はオランダに対して艦船の見積りを要求していますが、この際、オランダはカンバン基金(詳細は調査中)に関する改善を要請しています。大船の禁の解除やカンバン基金等、法的規制の解除すなわち「規制緩和」を合せて考えなければならない状況になったのです。

国内システムの見直しが必要になりました。


「許認可権」を持つ幕府のすばやい対応が必要になりました。

「規制緩和」は中央政府である幕府が率先して実施するのではなく地方の福岡藩主黒田斉溥、越前藩松平慶永、宇和島藩主伊達宗城ら多数の建言により実現されたのです。 (建言は前からあったのですが...弘化3年の建言

中央政府(幕府)の状況変化への対応と直接状況変化を感じる現場(関係諸藩)の状況認識と対応は違います。世の中が動くとき、中央の指導・施策は遅れるようです。現代もあまり変わらない気がします。身近に状況変化を体験するかしないかの差かもしれません。それとも、自ら提案せず提案させ判定する(稟議する?)という決定方法をとっているのでしょうか。

嘉永6年9月15日、幕府は大船建造の禁を解く。

大船建造の解禁により、幕府及び各藩は黒船調達を開始しました。
幕府は長崎奉行
水野筑後守忠徳を通じてオランダに黒船を注文したようですが、それからほぼ1年後の嘉永7年7月5日、オランダ商船サラ・リディア号が軍艦注文に関する回答を持って長崎に入って来ました。幕府が注文した軍艦(咸臨丸、朝陽丸)はロシアとトルコの戦争の影響で建造が遅れているとの回答です。

軍艦の入手はしばらくお預けになりましたが、オランダ側も気を使ったようで、長さ40フィート(約12m)の雛形を持って来ました。別段風説書の添付文書によると、鉄板の厚さ壱分(ほぼ3mm)とあります。

さて、幕府ならびに諸藩はせっせせっせと黒船を調達するのです。中には贈呈された船もあります。安政2年6月8日オランダよりスームビング号(観光丸)を幕府が頂き、安政5年7月18日 英国より遊覧用蒸気船(蟠竜丸)を幕府が頂きました。
頂きものばかりではなかなか量が揃いませんので注文しなければなりません。


長崎駐在のイギリス領事ウィンチェスターは、1862年(文久2年)の貿易報告の中で、「外国海運に関して非常にきわだった特徴は、幕府や諸侯への販売を目的とする蒸気船が頻繁に入港したことです」と述べ、「蒸気船の購入の希望は非常に強く、・・実際に艦船が売却されると法外な価格になりますので、販売可能な蒸気船が長崎や横浜に突如として殺到してきました」と指摘しています。
「明治維新とイギリス商人」

具体的にどの程度黒船を購入したのかデータがありましたので拝借します。左下の表です。
幕末・維新期の艦船購入(明治維新とイギリス商人 杉山伸也、岩波書店)からの引用


長崎 神奈川 箱館 江戸 兵庫・大坂

合計

日本が購入した艦船は中古が多かったのではないかという印象ですが、そうでもないようです。

60%に当たる38隻が建造後4年以内の艦船で、1850年代半ばあるいはそれ以前に建造された中古船は17隻にすぎなかった。とくに1866年、67年(慶応2,3年)のピーク時に輸入された艦船の多くは、中古船というよりも、500トン以下の比較的あたらしい艦船であった。「明治維新とイギリス商人」


お古をつかませられたと思いがちですが、日本側も意外としっかりしているようです。

幕府や諸藩は資金調達が大変ではなかったかと予想します。為替レートの問題、資金調達に伴う予算の振替え、売買契約等、財務担当者は苦労したはずです。


黒船は購入したが、さて誰が運転するのでしょうか、操船技術の習得はどのようになっていたのでしょうか。これらは別のページで調査・紹介します。
1860(万延元年) 1 1 0 0 0 2
1861(文久元年) 1 1 1 0 0 3
1862(文久2年) 4 5 0 0 0 9
1863(文久3年) 7 7 1 0 0 15
1864(元治元年) 12 1 1 0 0 14
1865(慶応元年) 12 1 0 0 0 13
1866(慶応2年) 22 2 0 0 0 24
1867(慶応3年) 25 1 0 0 0 26
1868(明治元年) 13 2 0 1 8 24
1869(明治2年) 7 0 0 0 8 15
1870(明治3年) 8 0 0 0 9 17

合計

112 21 3 1 25 162

参考資料:明治維新とイギリス商人、杉山伸也、岩波書店

目次に戻る

hanmap.gif (2136 バイト)


弘化3年の建言

弘化3年7月8日、当時の老中阿部正弘が将軍家慶に稟議をしております。(参考:幕末五人の外国奉行)

「外船撃攘の容易に行われ難き事及び軍艦製造の急務につき正弘の書」

阿部正弘はペリー来航の7年前に、日本の船では外国船と戦争しても負けてしまうし、荒波の場合は運行できないと述べております。
また、浦賀沖に外国船が停泊した場合、日本の海運は、その通路を遮断されてしまうとして、艦船の製造について検討中であると報告しております。

阿部正弘は、当時の最高権力者将軍に上申(稟議)していますので、和船では黒船に勝てないという情報を持っていたと思います。
黒船を間近に見て、軍艦製造を建言することは、必要であるとの認識が共有できますが、さて、ペリー艦隊来日の7年前では、この上申はどうなったのでしょうか。多分、あまりにも唐突な意見として受け取られたのでしょう か、あるいは、幕府には当面しなければならない問題があり、そちらに力を注ぐ必要があったのかもしれません。